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九戸城[くのへじょう]
九戸城(くのへじょう)は、岩手県二戸市福岡城ノ内〔(地図閲覧サービス) 国土地理院 〕にあった日本の城である。後に盛岡へと移るまで南部氏の居城となり福岡城と改められたが、九戸城と呼ぶのが普通である。別名「宮野城」。国の史跡に指定されている。 == 概要 == 中世の平山城で、主に南部氏の一族である九戸氏が居城した。正確な年は不明である〔『図説日本の史跡 第6巻 中世』、同朋舎、1991〕が、九戸氏が九戸城を築城し移ったのが、『系胤譜考』では7代目光政のとき、『奥南落穂集』では12代目信実の代という。また、11代目(『奥南落穂集』の代数では14代目)政実が二戸を加増されて移ったとされる説もある。 「九戸政実の乱」以後、蒲生氏郷によって改修されて南部宗家の本城となった。 西側を馬淵川、北側を白鳥川、東側を猫渕川により、三方を河川に囲まれた天然の要害で、城内は空堀によって、本丸、二の丸、三の丸、若狭館(わかさだて)、外館(とだて、石沢館とも)〔東北地方でいう「館」の意味は城や曲輪にあたる。用例には、根城の沢里館(さわさとだて)や七戸城の宝泉館(ほうせんだて)などがある。〕〔村田修三監修『ビジュアルワイド 日本名城百選』小学館 2008年 ISBN 978-4-09-681564-9〕〔財団法人日本城郭協会監修『日本100名城 公式ガイドブック』学習研究社 2007年〕松の丸などの曲輪群を形成し、本丸の一部には東北最古の石垣をもつ。東北地方では有数の規模であったが江戸初期に廃城となった。 城跡は、1935年(昭和10年)6月7日、国の史跡に指定され、現在は保存整備されている。ただし、三の丸跡は大部分が市街地となっており、史跡指定対象外となっている〔『図説日本の史跡 第6巻 中世』、同朋舎、1991〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「九戸城」の詳細全文を読む
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